感情はためこんだり抑えつけていると、何らかの形で影響が出る場合があります。
ためこんだ感情を言葉にしていくことで、辛い経験を自分の中に落とすことができます。
失恋をした時、自分を否定される出来事が起こった時、大切な人を亡くした時・・・
人は茫然自失となり、悲しみで心がおおわれてしまうことだと思います。
その体験を語る、ということはどのような意味があるのでしょうか。
今日のテーマは「体験を語ること」です。
語りで作られる「人生の物語」
人は何らかの体験をした時に、その体験を評価する傾向があります。
・最悪だった
・ラッキーだった
・嬉しい出来事だった
・不幸だ
まずはこのように「評価」をしますよね。
「失恋をした私は不幸だ」
「小さい頃に病気をしたのは悲しい出来事だった」
「仲が悪かった両親の離婚はラッキーだった」
などです。
しかし「体験を語る」ということは、自分の体験を評価することではありません。
評価をするということは、「良い悪い」をつけるということです。
ですが、自分の人生に起こった出来事を、良い悪いで評価をするのではなく、「自分の人生にとってあの出来事はどんな意味があったのだろうか」と考えることで、自分に起こったことが心の中にストンと落ちるのです。
長期入院病経験者の語りに見られる病の意味
長期に入院が必要となる病気になった場合、長い療養生活を行うことになります。
医療機関では「病気を治す」ということはとても大切なことです。
私も医療従事者なので、病気を治療する、という視点を当然持ちます。
しかし、それだけではありません。
「病気を抱えて生きる」という視点は以前下記の記事で書きました。
今回の記事内容にも関連があるので、興味がある方はのぞいてみて下さい。
さて、話を戻すと、私たち心理士は「病気を治療する」という視点と同時に「病気を抱えて生きる」という視点を持ちます。
そしてもう一つは、「病の意味」について考えることを大切にします。
長期入院を経験すると、自分の人生の時間を奪われた感覚、命を失うかもしれない強い恐怖、なぜ自分だけが、という理不尽な感情など、健康な人には経験しないような心理状態になります。
病の意味を考える時、その経験に対して「不幸なことだった」「かわいそうだ」という評価を与えることはしません。
そうではなく、「その人にとってその病はどのような意味があったのか」ということについて考えるのです。
否定的・肯定的という視点では見ません。
人生の長い時間を病と闘うことに費やした人は、「辛かったね」「かわいそうだったね」と慰められることでは心は救われません。
「自分の言葉で病について語ること」が何よりも心の整理になるのです。
よく私たちは「自分の人生の物語」と言葉にしますが、自分の人生の中で起こった、あの出来事は、いったい自分にとってどんな意味があったのだろうか、自分は何を見てどんな風に感じたのだろうか、と考え言葉にすることで、長期入院をしたことの意味を心に落とすことができるのです。
災害などでも同じです。
長い年月がたち、ようやく感情を言葉にできるようになり、少しずつ起こった出来事、感じたことなどを言葉にしていきます。
言葉にすることで、ようやくその出来事は完結する、ということはよくあります。
災害を受けた、までで物語は終結しません。
その後に苦しみ、大変な中で復興作業を行い、失った人や物を思い泣き、それから何年もその人なりに災害について心の中で考え続けるのだと思います。
そしてそれを時間をかけて言葉にしたり、文字にしたりして、自分の心の中にストンと落とす、物語はここの時点まで続いているのだと思います。
「戦う」以外の表現
このような「病を抱える」「病の意味を考える」という視点は、私がまだ心理学の学生だった頃に知ったものです。
それまでは「病気と戦う」などの表現をよく用いていたので、「病を抱える?病の意味?そんなのない。病気を治したいと思うのは当たり前だ」とよく分からなかったものでした。
今は・・・
戦うという視点と同時に、その人の人生の中に起こった大きな出来事を、否定的肯定的で評価をするのではなく、その人独自の物語がある、という視点も大切なのかな、と考えています。
実は私もまだまだ自分の言葉で話せるほど、自分の中で理解しきれていない部分です。
今後色々な人の話を聞かせていただくことで、私の中にストンと落ちた時、もう少し詳しく語れるようになるのかもしれません。